(44)競馬はギャンブルか

競馬はギャンブルであると言っている当人がこんな事を言うのはおかしいかもしれません。
ところで、なにか言葉を解釈する時に、直ぐに辞書を持ち出したがる人がいるので一応辞書に載っている内容も書いておこうと思います。
ギャンブル(gamble)は、国語辞書を見ると賭け事、ばくちであり、和英辞書ではgamblingと言うのが正しい英訳のようです。
gamblingというと賭博(とばく)が和訳として適当のようです。
で、賭け事の意味はと言うと、金品を賭けて争う勝負事。かけ。ギャンブルと書いてありますから、金品を賭けるのが全てギャンブルならば競馬は確かにギャンブルと言う事にはなります。
しかし、それではあまりにも大雑把すぎるので、同意語とされている博打(ばくち)を調べると1 賽(さい)・花札・トランプなどを用い、金品をかけて勝負を争うこと。賭博(とばく) 2 偶然の成功をねらってする危険な試み。等と書いてあります。
これを見ると1の競走馬がサイコロや花札と同等の物であるとはとても思えませんし、2の競馬をやることが偶然の成功をねらってする危険な試みと呼ぶのは、いくらなんでも言い過ぎの感じがします。

私が今まで競馬をギャンブルであると言い張ってきたのは、競馬を頭の体操や推理のスポーツ等と言って、あたかも十分に推理すればレース結果を導き出せるものであるかのような、競馬関係者がいる事からきております。
何度も言っているように、このような人達は競馬に多くの人を参加させたいために宣伝を行う必要があるのでしょうし、同時に巨大な資本を持つJRAや馬主や調教師に嫌われたくないばかりに、それらの人達に自分を売り込んだり、媚びたりする必要があるのだろうとは察しております。
しかしながらそのために、競馬を十分に知らない純粋な人間の多くが、完璧な推理を行ってレース結果を導きだそうと無駄な努力をしている場合もあるのです。
無駄な努力だけならまだしも、その過程ではお金をどぶに捨てるに等しい事をさせているのではないでしょうか。

競馬は競走馬を知らない人でも遊園地にでも行くように楽しめる娯楽だった時もありましたが、いまや競馬のプロでさえも競馬だけでは生活を維持する事が困難になっているようです。
以前は純粋に馬券だけで食っていけた人が、競馬予想を売ったり競馬本を発売しなければ生計を立てていけないようです。
一昔前が高度成長時代のバブルの時代だったと言う事を抜きにしても、今の競馬には何か殺伐とした雰囲気が漂っているように私には思えてきます。
競馬がこれほど多くの人から見向きもされなくなっているのは、1つにはレベルの低い自分の状況しか考えられない競馬評論家や競馬関係者の存在でしょう。
これらの人達は間違いなく競馬予想はめったに当たらないものである事を教えてくれましたし、儲からないものである事を教えてくれましたし、プロだと自称する割りには競馬予想が実にいい加減な根拠から導き出している事も教えてくれました。

もう1つには、競馬はいくら的中できても長くやっていると必ず損をすると言うシステムにあると思います。
私が調べた重賞レースを馬連でオッズに沿って買うを見ていただければ判る通り、的中率が36%を超えているにも関わらず回収率が70%にも満たない事です。
予想の限界に近い的中率であるのに回収率がこれだけ低くければ、どんなに予想能力の優れた人であっても儲けるどころか現状維持さえも出来ません。
それならば、JRAが控除率を下げればすべてを解決する事ができるのでしょうか。
控除率が0%なら間違いなく解決できますが、これではJRAは存続できないでしょう。
私の感覚的なものですが、5%程度の控除率でも3割程度の人が損をしない程度ではないかと思っています。
誰の目にも危機的状況が明らかになればJRAも控除率の見直しはしなければならないでしょうが、そんな時は競馬は崩壊直前でしょうから焼け石に水みたいなものでしょう。
ギャンブルと言うのは半分の人が損をして半分の人が儲かると言うのが理想ですが、競馬の場合は娯楽性もありますから、3割程度の人がとんとん以上を維持できれば存続できると思います。

何といっても競馬がこれだけ衰退してしまった最大の原因は、やはり主催者が競馬の人気の低迷に危機感を持たなかった事でしょう。
地方競馬は完全に崩壊したと言っても良いでしょうし、比較的人気のある中央競馬での対応も巨大スクリーンの設置だとか競馬場の施設の改修だとかテレビのコマーシャルに力を入れる程度が限界のようです。
根はもっと根本的な所にあると思うのですが、競馬のシステムを見直す事などは政府機関の反対や抵抗もありそうですからとてもやれないでしょう。
今は施設を作りさえすれば客が入るような時代ではありません。
本気で事業を行うなら、実際に競馬が判っている人を経営者として投入しなければなりません。
競馬は儲からないと言うイメージを払拭するために、競馬成金も誕生できるようなシステム作りが理想的ですが、これは夢の中の夢でしょう。
ギャンブル性を高めた3連単は中途半端な馬券でしたから、いっそのこと7連単でも作って宝くじ並みの1000万単位の配当でも得られるようにしたらどうでしょうか。
全レース有効にしても、的中者は1日1人出るかで出ないかぐらいなものでしょう。
もし、的中者がいなければ繰越しとでもすれば、億単位の配当もあるでしょうからロトをやっている連中が競馬に入り込んでくるかもしれません。
冗談はともかく、単なる天下りの場として、競馬をやった事もない人に運営を任せているたのでは、衰退するのは当然の理と言うものです。

競馬はギャンブルである事を私は決して否定は致しません。
間違いなく競馬はギャンブルの一種です。
しかし、競馬が毎週開催できるのはなぜでしょうか。
長期的には必ず損をするとは言え、競馬は投入資金をある程度回収する事ができます。
もし競馬が宝くじと同等の存在であったとしたらどうでしょうか。
宝くじを毎週でも発売しようものなら、買う人は直ぐにいなくなるでしょう。
同様に、競馬も半年も持たないで崩壊してしまうに違いありません。

競馬はギャンブルではありますがギャンブルではありません。
言葉でうまく表現する事ができないのですが、衰退を手をこまねいて見るしか対策が無いとは思いません。
競馬に参加する多くの人が、これならば長く続けられそうだと言う状況を作り出す事さえ出来れば、衰退に歯止めをかける事ができると思います。
とは言っても、政府官僚が考えるように、ギャンブルは金が余っている人がやるものだから、出来るだけ税金を取り立てた方が良い等と思う馬鹿な人達ではとても無理でしょう。
実際に競馬を支えているのは、なけなしのお金で馬券を買っている人達なのです。
散財して欲しいお金持ちはと言うと、競馬でも儲かっている人が多いのでは無いでしょうか。

私がやり方によって、競馬の崩壊を止められるのでは無いかと考える事の1つに競馬は経験を活かす事ができると言うことです。
テレビに出てくる競馬評論家のレベルではとても無理でしょうが、競馬のプロと呼べる人達には確かに相当の競馬予想の能力があります。
馬券の買い方も予想が無理なら重賞レースでも決して馬券は買いませんし、買い方も複勝や単勝中心の石橋をたたいて渡る程の慎重さです。
予想する要素も、馬の能力は当然として、馬場のコースの1つ1つの細かい状態や騎手や調教師の思惑までも取り込んでおります。
しかも、予想できないレースや配当的に妙味の無いレースはしませんので、一日36レースあっても数レースしか馬券を買いません。
言われて見ればこれは当たり前のやり方なのに、競馬評論家の中でこんな事を出来る人が1人でも存在しているでしょうか。
どう見ても予想が無理なレースでも、適当な理由をつけていい加減な予想ばかり行っております。
本人は馬券を買わないのでそれでも良いのでしょうが、そんな話を信じて馬券を買っている人も中にはいるのです。
競馬評論家には、出来ない事も出来ると言わなければならない特別な理由でもあるのでしょうか。
それとも出来る事も出来ない事も判断出来ない人達なのでしょうか。

話がだいぶ逸れてしまいましたが、競馬予想と言うのは骨董屋みたいに駆け出しの頃は損ばかりしていても、やがては多くを学んで一人前になって儲けられるようになる時が来ると思うのです。
そうであれば、それを目指して多くの人が参加するでしょうから、競馬産業はなんとか維持できるような気がします。
そためには、1人でも良いですから本物の競馬予想のプロが出てきて損をしない競馬のやり方を示して見せる必要があります。
競馬は決して万馬券を的中できる人が予想能力が優れているのでは無く、損をしない予想をする人が優れている事が理解できるでしょう。
本物の競馬予想家が現れる事により、競馬を行っている多くの人の励みとなるでしょうし、目標となるでしょうし、お手本ともなるでしょう。
そして、口先だけでどっかの手先ではないかと思われるような偽者の類(たぐい)は、競馬界から自然に淘汰される事になるでしょう。

私より競馬の好きな知り合いも2人程競馬から足を洗ってしまいました。
競馬を支えている人達がどんどん競馬から撤退しているようでは、残るのは競馬のプロ級の人達だけの共食いしかありません。
ただでさえ安過ぎる配当が、プロ級同士では更に安くなるだけでしょう。
やがては競馬のプロも競馬から撤退して行く事になります。
そうなれば、昔のように競馬は金持ちの道楽として規模を縮小して細々と生き残っていくしかありません。
それは自然の回帰現象だろうと呼べなくは無いのですが、とても残念な事だと思います。
荒れ果てた人気(ひとけ)の無くなった競馬場なんかを見たいとは思いません。
責任を問われない事を良い事に、どこかの国の馬鹿な官僚が考えて作った廃墟となった施設の数々をついつい思い出してしまいました。