(40)伝統の弊害

最近、伝統ある国家のスポーツで、1人の力士がズル休みをしたとかで、それを取り締まる協会が前例のない厳罰を下して騒ぎになった。
私は昔から相撲にはそれほどの興味は無いので、大相撲がどれほどの国家的に権威のあるものか、横綱がどれほど格式の高い地位なのかは全く判らない。
ただ、格式の高いものにしようとする相撲協会の意識(思惑・意図)は感じられるし、それが必要だと思っているのだろうと言う事も感じられる。
相撲が勝ち負けの決まっているショーではないかと言われるようでは困ると言うのが根底にある考え方なのだろう。
昔の教育を受けた私のような人間なら、相撲がショー化するのは悪いことだとの考え方を否定はしないが、出稼ぎで来ている外国の力士に厳格な規則で管理して、常に真剣勝負をさせようとしても無理なような気がする。
彼ら(日本人力士でもそのはずだが)にとっては体だけが資本であり、それを維持していく事が最重要な事なのである。
彼らが本当の意味での真剣勝負をしたならば、腕の1本や2本はすぐにでも折れてしまうような悲惨な事態が生じるだろう。
以前にプロレスラーが真剣勝負をしたら、そんな事態になったような気がする。
相撲の規則以外にも暗黙のルールのようなものがあって、お互いに規制しあっている部分が必ずあるだろうし、これは人に見せる格闘技には必要な事であり許される事だろう。
自分の体を壊してまでも無理な相撲(取り組み)を行う必要は無いし、これをショーと呼ぶには酷な事である。
力士によっては相撲はお客様を喜ばせるショー的なものだと考え、自分を芸人的な存在だと考えていたとしても全くおかしくは無い。
単なる芸人ならば、勝手気ままに遊びに行っても構わないだろうし、ズル休みを1回した程度はたいした問題では無い。

権威と言えば、ハワイから来た元横綱も結婚問題の時に横綱の権威(風格)を持つようと教えられたようだが、それが何であるのかは力士を辞めた今でも判らないのでは無いだろうか。
部外者である私には到底判らない事だし、どちらかと言うと権威とか格式とかをやたら振舞わす人間が大嫌いなので判りたいとも思わない。
見ている観客にとっても、力士に威厳とか権威を求めるよりも、迫力のある取り組みを見たいだけだと思う人が大部分だろう。
そこに、ショー的な要素が含まれていたかどうかは全く問題では無い。

そもそも、昔は聖職と言われ尊敬もされていた学校の先生に、痴漢顔負けの変態人間が多い事は良く知られている事である。
人を指導する立場の学校の先生にいい加減な人間が多いのに、たかがスポーツである力士に厳格さ等を求める必要は全く無いだろう。

もともと、無理な事を強引に押し付けようと思う相撲協会の考え方がそもそも間違っているのではないのかと私は思っている。
だいたい、その権威とやらを指導する立場の親方が、片一方では女遊びをしていると言う3流週刊誌の報道もあった。
当の親方が名誉毀損で訴えない所を見ると、かなり事実の部分があったのだろうと思わざるを得ない。
女遊びぐらいがなんだと開き直られるかも知れないが、著名な将棋の棋士が女遊びが見つかったために、一瞬にして人間的な尊敬の念と人格者の肩書きを失った例もある。
こんな親方がいくら権威や格式を唱えたところで、それを見ている弟子が理解できる訳はないし、それどころかせせら笑われている事だろう。

今回の例でもズル休みをしたと言う力士の親方の指導力の無さがやたら目に付くようである。
テレビ等の報道を見ていると、指導とはほど遠い態度で接しているようであり、何か力士に対して弱みでもあるのかとさえ思ってしまう。
本当に権威とか威厳を保ちたければ、それを唱える協会のお偉い人間が昔の聖人のような生活を送って見本を示さなければいけないだろうが、一般の人の数倍の給料を貰って金があぶれている人達にそんな生活ができるとはとても思えない。
つまり、言う資格の無い連中が無理な事を押しつけているのが、今回の騒ぎではないかと私は考えているのである。

私がここで言おうとしている伝統の弊害は、実はこんなどうでも良いような内容の話ではない。
競馬予想のプログラムを作っていて、最近大変困ったのがレースの表記方法である。
これが、先日(2007年9月9日)行われた中山11R京王杯オータムハンデのレース結果のJRAの競走成績の欄に載っていた抜粋である。

着順 馬番 馬名 性齢 負担
重量
騎手 タイム 着差 推定
上り
馬体重 調教師 単勝
人気
1 2 キングストレイル 牡5 57.0 田中勝春 1:32.6   34.4 494 -14 藤沢和雄 2
2 3 カンファーベスト 牡8 57.0 江田照男 1:32.9 1 3/4 34.5 472 +12 佐藤吉勝 4
3 5 マイネルシーガル 牡3 53.0 後藤浩輝 1:33.0 3/4 34.4 510 +8 国枝栄 1
4 15 マイケルバローズ 牡6 55.0 横山典弘 1:33.1 1/2 34.0 506 -12 藤沢則雄 6
5 8 グレイトジャーニー 牡6 55.0 佐藤哲三 1:33.1 クビ 34.1 466 -4 池江泰郎 8
6 1 ヴリル 牡6 55.0 田中博康 1:33.2 クビ 34.4 504 -2 国枝栄 12
7 13 マイネルレコルト 牡5 57.0 蛯名正義 1:33.3 1/2 34.4 488 0 堀井雅広 7
8 12 ストーミーカフェ 牡5 55.0 田中剛 1:33.4 1/2 35.6 492 +6 小島太 3
9 4 アポロノサトリ 牡4 55.0 中舘英二 1:33.4 アタマ 35.1 446 -2 堀井雅広 11
10 11 ダイワバンディット 牡6 55.0 北村宏司 1:33.4 クビ 35.1 490 +4 増沢末夫 13
11 10 インセンティブガイ 牡6 56.0 吉田隼人 1:33.6 35.5 470 -6 角居勝彦 5
12 6 スクールボーイ 牡7 51.0 小野次郎 1:33.6 クビ 34.8 496 -2 小林常泰 15
13 16 ツルマルヨカニセ 牡7 54.0 村田一誠 1:33.8 1 1/2 34.7 488 -2 橋口弘次郎 16
14 7 デンシャミチ 牡4 53.0 柴田善臣 1:33.8 ハナ 35.9 468 -6 田中章博 9
15 9 タガノデンジャラス 牡5 55.0 石橋脩 1:33.9 1/2 35.8 454 -4 松田博資 10
16 14 ショウナンパントル 牝5 50.0 吉田豊 1:34.2 34.6 458 0 大久保洋吉 14

極(ごく)普通のどこにでもあるありふれた競馬の成績欄なのだが、ここに伝統的な弊害の表記がしてあるのである。

競走馬が時速60Kmのスピードで走っているのは良く知られていることである。
時速60Kmと言うのは、1秒間に17mも進む距離で自動車並みである。

人間に取って0.1秒は短い時間であるが、時速60Kmの世界ではかなり長い時間である。
ところが、上記を御覧いただければ判るようにタイムは10分の1秒単位までしか記載されていない。
このレースの着差を正確に表すには最低でも100分の1秒単位で記載しなければいけないのである。
表記できないものだから、別枠に着差として1馬身3/4とかクビとか書いている。
なぜ、こんな事になっているのだろうか。
そこに伝統の弊害があるのである。

競馬の歴史は古く、17世紀から18世紀にかけて行われていた。
その頃は100分の1秒を測定する事などはできず、全て目視によって競走結果を判定していた。
現在は正確にタイムを測定できるにも関わらず、伝統に従って馬の体を基準にした着差があくまで基本あり、タイム表記はおまけに過ぎないのである。

競馬は時間を競うものでは無くてレースの着差を競うものであるからレースのタイム等はどうでも良いのではないかと言われそうである。
確かにレースのタイム等は当てにはならないものであるし、それが100分の1秒単位の記載があろうが無かろうがどうでも良い事のように思えるのだが、時間を基にした競馬の予想を行うにはそうはいかないのである。

一般的に予想を行うには、過去の順位よりも、そのレースの走破タイムや他の馬との時間関係に重要な意味がある。
現にこのタイムをそのまま点数として馬の能力判定に使用しているソフトもある。
特に予想で使用する場合には、走破タイムと他の馬との相対的な時間の関係であり、10分1秒単位では大雑把すぎて使いものにならないし、昔ながらの着差表記をデータの処理に使う訳にもいかない。

上記のレース結果を例にとって具体的に不都合が生じている点を説明してみようと思う。
1着のAキングストレイルと2着のBカンファーベストの着差は0.3秒である。
この0.3秒と言う差は、実際はとてつもなく大きな差で、上がり時間(34.5秒)から推定すると1秒間に17.4m程度は差がでるから、0.3秒では17.4×0.3で5.2mの差がある事になる。
5.2mと言う距離はだいたい2馬身以上は楽に離されている距離であるから、2着のBカンファーベストは1着のAキングストレイルとはかなりの着差で決着した事になる。

ところが着差表記では1馬身3/4であり、念のために実際のレースを見てもその程度である。
実際には0.2秒強程度の差しかないようである。

なぜ、こんな事になるのだろうか。
推定であるが、測定は1000分の1秒程度の単位で出来ていたと思うのだが、表記が10分の1秒なので100分の1秒の単位を四捨五入しているのではないかと思えるのである。
つまり、この例だと1着のAキングストレイルは1分32秒64であり、2着のBカンファーベストは1分32秒85であったなら、両馬のタイム差は0.21秒であり着差とも一致するのである。
表記は四捨五入するので記載の通りになり、あたかも0.3秒の差があったかのようになる。
時速60Kmの世界を表さなければならないのに、時速0Kmの世界の人間の都合や感覚で表現するからこのような事になってしまう。
どんなに不都合が生じようと、伝統に拘るばかりの体質の古い人達が運営しているから改善される事は無いだろう。

この程度の差がなんだと思われるかも知れないが、競馬予想に使用するデータが走破タイムや上がりタイム程度の現状の場合では、馬の力が近接しているレースに於いてはこの程度の誤差でも予想ミスとなる場合がある。
与えられたデータがだけが頼りなだけに、正確なデータ(大雑把でないデータ)を得る事は不可欠となるのである。
タイムに100分の1秒単位を追加するだけで良いから、この伝統の弊害はなんとかして貰いたいものである。
一見、合理的にも思われる着差の表記は、単に順位表として見るだけなら問題は無いのだが、これを出馬表に変換(データを馬番でソート)した場合には、たちどころにその欠点を露呈してしまう。
競馬プログラムを作る者から見た場合には、着差の表記は邪魔な存在以外何者でも無いのである。