(24)ギャンブルである事の認識

競馬予想が当たらなくなると、ついつい考え込んでしまう。
でも、これは良い事なのだと考えるようにしている。
もし、当たり続けてじゃんじゃん儲かるような事になると、人間は慢心してしまう事が多いのではないだろうか。
’なんだ競馬予想なんて簡単じゃん’。 これが怖いのである。

それにしても、世の中にお金の余っている人は一杯居るとみえて、競馬の単勝に30万とか50万とか買っている。
購入して的中した馬券が写真入りでHPに掲載されているので、誰かが買ったのは確かなのだろう。
PAT全盛の時代に、わざわざ馬券を購入するのはどうかとも思うのだが、税金対策としてそうしているのだとしたら恐れ入るが、単に自慢するための証拠として買っているだけだと思う。
自慢して得意になる事がどれだけの価値を持つのかは判らないが、世間的には肩書きとか勲章とか表彰状の類は十分通用するので意味のあることなのかも知れない。

考え方を変えて見れば、そうしたものが自慢になると言う事は、競馬予想はいかに高額配当を的中させる事が難しいかを物語っているのではないだろうか。
そういった意味では、難しい事ができて大儲けができたのだろうから自慢したくなる気持ちも全く判らない訳ではない。
しかし、なまじっか良い思いをすると、ついつい深みに濱ってしまう場合もある事を忘れてはいけないだろう。
特に多いのは、パチンコ依存症と呼ばれるギャンブル依存症で、一旦10万〜20万を儲けた快感を味わってしまうと、それを忘れる事ができず、毎日パチンコ通いを続ける事になる。
結果はと見れば、そんなに毎日勝ち続けることができるはずもなく、結局は数百万の借金を抱えて悩み込む事になってしまうようだ。

私も、若い頃にパチンコがまだ手動式の時代に結構通った経験があるので、ある程度そのような人達の気持ちが判るのであるが、勝っている時はルンルン気分だが、負けた時に味わう惨めさや敗北感は言葉では表せないものである。
パチンコも昔は経験や技術を発揮できる要素があったが、今は完全に電子化されて確率の世界で人間が自由に操られてしまう状況になっている。
人間はと言うと、たまに餌を与えられるとせっせとお金をつぎ込む単純動物の存在でしか無くなっているのである。

パチンコにもプロは居るだろう。
それで生活している人も確かに存在していると思う。
競馬にもプロは居るだろう。
それで生活している人も確かに存在していると思う。
しかし、競走馬の世界で頂点に立つ事ができるのは、何万頭のなかの数頭に過ぎないように、ギャンブルのプロとしてやっていけるのは何千人の中で数人と考えて間違いない。
ギャンブルで破産した人は数え切れない程の数が存在するだろうが、ギャンブルで成功した人は数え切れない程は存在しない。